実際に発見されている物理的なオーパーツでなく、 古くから文献などで言及されている存在で、当時には存在しないであろうものなため、 オーパーツの一種と考えてよいと思われるものです。
虚舟(うつろぶね)は、日本各地の民俗伝承に登場する架空の舟である。他に「空穂舟(うつぼぶね)」「うつぼ舟」とも呼ばれる。
最も著名な事例が後述の享和3年(1803年)常陸国のものであるが、それ以外にも寛政8年(1796年)加賀国見屋のこし、元禄12年(1681年)尾張国熱田沖、越後国今町、正徳年間伊予国日振島、明治16年(1883年)神戸沖などの記録がある。
『折口信夫全集』第三巻に収録されている「霊魂の話」(初出は『民俗学』第一巻第三号・郷土研究会講演、 1929年9月)には、折口信夫や柳田國男のうつぼ舟、かがみの舟に対する考察が記載されている。それによると、うつぼ舟、かがみの舟は、「たまのいれもの」、つまり「神の乗り物」である。かがみの舟は、荒ぶる常世浪を掻き分けて本土に到着したと伝わっていることから潜水艇のようなものであったのではないか、と柳田國男は述べている。
また、折口信夫は、うつぼ舟は、他界から来た神がこの世の姿になるまでの間入っている必要があるため「いれもの」のような形になっていると説いている。
虚舟の形状については常陸国の事例の図版が有名であるが、それ以外には虚舟の形状について記述された史料は殆ど存在しない。箱舟と書かれた史料が若干存在するのみである。
常陸国のうつろ舟 虚舟の伝説の中でも最も広く知られているのは、享和3年(1803年)に常陸国に漂着したとされる事例である。江戸の文人や好事家の集まり「兎園会」で語られた奇談・怪談を、会員の一人曲亭馬琴が『兎園小説』(1825年刊行)に『虚舟の蛮女』との題で図版とともに収録され今に知られているほか、兎園会会員だった国学者・屋代弘賢の『弘賢随筆』にも図版がある。この事例に言及した史料は現在までに7つが確認されており、内容には若干の異同がある。
その内容は概ね以下のようなものである。
享和3年(1803年)、常陸国鹿島郡にある旗本(小笠原越中守、小笠原和泉守などとされる)の知行地の浜に、虚舟が現れた。 虚舟は鉄でできており、窓があり(ガラスが張られている?)丸っこい形をしている。 虚舟には文字のようなものがかかれている。 中には異国の女性が乗っており、箱をもっている。 2014年5月26日付けの『茨城新聞』は川上仁一の忍術を伝える伴家の古文書から「うつろ舟奇談」に関わる史料があり、漂着地の実在地名が「常陸原舎り濱」(現在の神栖市波崎舎利浜)と記され、具体性があると岐阜大学の田中嘉津夫名誉教授が発見したと報じた。